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2011年6月27日月曜日


大震災に備える

 
 東日本大震災の発生以来 100 日余りがたちました。これまでご報告してきた通り、私は与党の復興ビジョンチームのメンバーとして,また以前から防災都市計画に携わってきた立場から、この間被災地の復旧・復興に取組んで来ました。去る6月 20 日には復興特別委員会の一人として関わってきた「大震災復興基本法」が可決成立しました。じれったいほどのペースですが広域かつ多面的な被災の状況から無理からぬ面もあります。国会では引き続き復興特区の具体化など特別措置法の検討を始めており、今後、本格的な復興が加速させなければなりません。

 大震災発生以来、東北の被災地にしばしば足を運んでいます。6月上旬に訪れた牡鹿半島は最も深刻な被災を受けた地域のひとつ、半島の拠点、女川市街地は破壊されたまま、かなりの部分が水没しています。先端の鮎川まで石巻からクルマで一時間ほどの道筋、半島のせいか復旧のペースは遅滞しており、繰り返す浜と言う浜、どこも津波で本当に徹底的な破壊を被っています。かつての美しい浜の連なりはすっかりその面影を失っていますが、高いところからふと見ると、ガレキの広がる平地を隔てた湾に漁船がいくつも浮かび、整然と舳先を並べてすでに漁に勤しんでいます。まさに不屈の漁師魂、復興へ向けて自立への強い意志を感じる風景が広がり始めていました。

 さて、千葉県の問題ですが、今回の大震災を人ごととせず、来るべき首都直下地震に備えるべき時です。地球の歴史を見れば、巨大地震は往々にして兄弟地震を伴っています。わが国においては 150 年ほど前の安政の時代に東海、東南海と江戸の大地震が,また太平洋戦争末期には東南海、三河、南海地震が続いて起き、多大な被害を被りました。世界的には、最近では 2004 年 12 月26 日 、 インドネシア で起き Mw9.1 のスマトラ島沖地震から4ヶ月後、 2005 年 3 月28 日 、約 250km 離れた震源で Mw8.6 の地震が発生したことも忘れられません。
 わが千葉県も今回、津波や液状化等、大きな被害を被り、印旛地域でも利根川沿岸や印旛沼周辺等で液状化が起きました。かつて、元禄の大地震の際、九十九里浜等で、津波により六千人余の人命が失われたこともあります。近い将来,首都圏直下型や首都圏北部等で大地震の起きることが危惧されています。かつてとは異なり、密集市街地も広がっています。この機会に今回の災害に学びつつ危機管理を徹底し、地域で暮らすみなさんと共に危険をチェックし、しっかりと備えを充実して行かねばなりません。

2011年6月9日木曜日


本日、「東日本大震災復興基本法」が復興特別委で可決

 
 本日、「東日本大震災復興基本法」が復興特別委で可決され、明日、衆議院を通過する。来週中には参議院でも可決され、成立する見通し。
 先週末、不信任案提出で一時滞ったものの、3週間に渡ってほぼ連日、集中的に審議してきた。ようやく野党との調整も整い、民自公の支持のもと、最終案を委員長提案と言う形で可決(反対は共産、みんな)した。
 本法をベースに本格的な体勢が整い、被災地域における復興が加速することを心から期待する。
 この間、毎週、東北に通っている。自分の目で現地の様子をしっかり見ることから取組を始めたい。やはり実際見てみないと発想がどこか中に浮いた感じで自信が持てない。フィールドをまず大事にする、それが地域づくりの原点と信じ、議員になる前からずっと続けてきた。被災地を見て回るのは確かに気が重いが、だから一層、フットワークを効かせて、言わば通い詰めてきた。今は地名を聞けばかなり細かな地域の情景が浮かび、復活に向けての意欲をいくらかでも共有できるようになった気がする。
 去る6、7日、国土交通委員会で被災地の視察。
 前回からひと月経過し、駅跡から見下ろす南三陸町は、ずいぶん乾いてきているように感じられる。だが、いくらか減りはしたものの、相変わらず見渡す限りガレキの山で、人の気配が感じられない不思議な世界にいるような感覚に襲われる。とにかく避難している住民のみなさんと共に早く復興に取りかからねばならない。
 仙台港周辺は生魚が腐敗しているのか異臭がきつい。破壊された大型コンテナが所狭しと並べられて、ガントリークレーンも足元から塩に漬かったため使えない。間もなく暑い季節がやってくる。港の機能回復や清掃を急ぐ必要がある。野党の理事諸議員といくつかの風景を共有し共通意見の交換も出来た。
 今国会も残すところ会期はあとわずか。政府においては復興構想会議において復興のあり方の検討が進んでいるが、私は党の復興ビジョンチームを通じて提言すべく、全力を注いで行きたい。

2011年6月6日月曜日


態勢を確立して復興加速の機とす

 先週の不信任案をめぐる一連の経過の中で菅総理の早期退陣が流れとなった。大震災復興を急ぐべき立場からは早い方がいい。任期途中の交代だから通常なら両院議員総会の決定事項だが、党員サポーターの登録と合わせて
代表選という道筋も考えられる。この間、主張してきたように挙党態勢を作るよい機会だ。それまでに現政権に速やかに一定のメドをつけてもらえばいい。そのことが国を挙げて復興に当たるための一番の近道である。
 ようやく少し時間ができたので土、日曜、ひとりで女川、相馬を回ってきた。がれきのむこうの湾では漁船が並んて操業を始めるなど地元の心意気が強く伝わってくるが、町の方は大破し、横転した建物が累々と浸水した海水に浸かっており、復興は容易ではない。
今日、6日、7日と国土交通委員会で宮城県の視察。復興プランとその実施は一刻を争う。

2011年6月2日木曜日


菅内閣不信任決議案否決について
 本日の本会議において、菅内閣不信任決議案は、賛成 152 票、反対 293 票で否決されました。直前までその結果については予断を許しませんでしたが、結果は下記の通りとなりました。
 本会議に先立ち、総理出席のもとで代議士会( 1 時間、通常 15 分程度)が開催され、総理から大震災と原発対応のメドがつき次第、辞任するとの発言があり、それ受けて、不信任案否決が大勢となりました。採決はこの結果を反映したものです。
 昨日、 51 名の衆議院議員の署名をもって党執行部に要求した、「両院議員総会開催」と「政権運営の刷新による内外の人心の一新」がこのような形で実現したことをひとまず喜びたいと思います。
 これを機会に民主党の結束が強まり、震災対策等の取組を一丸となって進められることを期待すると共に、今後の政権運営のあり方についても積極的に関わって行きたいと考えています。
<採決の結果>
総数 478
欠席・棄権 33
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過半数 223
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反対 293
賛成 152
今こそ民主党の正念場
-排除の理屈を排す -
 2003 年9月、二人が舞台に立ち、歩み寄ってしっかりと手を握り合った。会場から満場の大きな拍手が沸き起こった。歴史を開いたふたりとは他ならぬ菅直人氏及び小沢一郎氏である。この光景を目の当たりにして、近い将来、政権交代が成就すること、新たな時代の政治を実現できることを私は確信した。 2003 年の党大会は希望と熱意に満ちていた。誰もがこの瞬間、同じ熱い思いを共有し、また多くの国民が新生民主党を支持し、期待を抱いた瞬間だった。
 その年の初頭に私は民主党に入党した。それまでどの政党にも属さずに活動をしていたので、政治の大先輩である多くの先生から御指導賜わり、大変にお世話になってきた。その誰もが同じ政党に大同団結し、次の時代を目指そうという。不肖、私もここに骨を埋めるつもりで精一杯頑張ろうと心に誓い、今日まで過ごしてきた。
 以来 8 年、様々の経緯を経て、民主党は今日、岐路に立たされている。確かに、大きな時代の曲がり角を曲がるにはそれなりの曲折と時間が必要である。明治維新を振り返れば大政奉還を境に往って復って 40 年を要した。明治に入ってからも動乱が続き、その中で西南の役をはじめ、多くの歴史的悲劇が生じ、それがわが国のその後に大きな禍根を残すこととなった。歴史の時計を逆に回すことはできない。今こそ原点に戻ることが大事だ。改めて新民主党結成の精神を帰り、政権交代の立脚するところに返るべき時である。そのことが国民の期待に応えるただひとつの道である。
 今、わが国は東日本大震災により未曾有の危機に瀕している。被災地では多くの同胞が言葉を絶する苦難の日々を強いられている。一刻を惜しみ、全力で復興に当たるべき時である。言うまでもなく大震災の復興はすべての党所属議員が一丸となり、党の総力を挙げて取組むべき使命であり、特定の個人の役割ではない。そのことを旨として、誰もが思い切り力の揮える党の再生を図るべき時である。
 このような立場から、私は他政党に与して民主党を割る危険を冒すことを是としない。党が自ら体制を一新し、人心を改め、挙党体制を確立して日本の再生に邁進することを強く求めて行きたい。
民主党千葉第 13 区総支部 総支部長
衆議院議員  若井 やすひこ
※ 昨日、同志 51 名を代表し、 10 名で同主旨を党執行部に申し入れました。